
国際自動車連盟(FIA)と国際モーターサイクリズム連盟(FIM)公認の世界を代表するラリー大会のひとつ、ダカールラリー。砂漠や荒地などを走り続ける過酷なレースです。日野自動車は、エンジニアたちにトラックづくりの誇りと何事にも立ち向かう挑戦心を抱き続けて欲しいとの想いから、1991年、日本のトラックメーカーとして初めてダカールラリーへの参戦を決めたのです。
1991年
「PARIS-TRIPORI-DAKAR」初参戦、初完走。
1990年12月29日。スタート地点「パリ」に集結した109台のトラックの中に、日本製トラックが4台初めて並んだ。日野レンジャーだ。パリを出発して、リビア、ニジェール、モーリタニアを経由し、セネガルのダカールまでの9,186kmを21日間かけて走る過酷なレース。
初めての挑戦となった日野自動車は、様々なアクシデントに見舞われた。序盤戦で、3号車が穴に落ちるトラブル。また、最大の難関と言われるテレネ砂漠の砂丘越えでは、2号車のドライバー「シュマラン」がタイヤ交換作業中に負傷をして戦線離脱。その他の車両にもミッションやアクスルにアクシデントが続き、連日連夜メカニックによる徹夜の修復作業が続いた。
その後、後半戦では小さなトラブルは出たものの順調な走行を続けた。ゴールの地、ダカールには初参戦にもかかわらず日野レンジャー3台が相次いで姿を見せた。ダカールラリーの歴史に、ニッポンの「HINO」の名前が刻まれた歴史的瞬間だった。
1997年
「DAKAR-AGADES-DAKAR」トラック部門
史上初の表彰台独占の快挙達成。
初完走の手応えはあった。しかし、更なる高みを目指して改善を繰り返し、1997年「チームレンジャーHINO」は体制を更に強化し、ダカールラリーに挑んだ。ルートは、ダカールラリー史上初となる、ダカールを起点に、アガデスニジュールを往復するもの。車両の性能がそのまま順位に結びつきやすい、チャレンジしがいのあるルートだった。盤石の体制でスタートを切ったはずの「チームレンジャーHINO」だったが、初日から最大のアクシデント。序盤クラストップを快走していた1号車が水温の異常な上昇に気づきストップ。ラジエーターのシェラウドカバーの脱落が原因だった。他の2台にも同様のドラブルが相次いで起こり、初日からメカニックは夜を徹した対応に追われることになった。それでもチームは一丸となり修復を成し遂げ、再度加速していった。ライバルのエンジントラブルという予期せぬ状況にも助けられ、着々と順位を上げていった。そして、1月19日。ダカールのラックロゼに「HINO」フラッグを高々と掲げた3台のレンジャーが揃って現れた。日野自動車が参戦したトラック部門での同一チームによる1−2−3総合フィニッシュはダカールラリー史上初の快挙。もちろん、日本のトラックメーカーとして初のトラック部門制覇であり、10リッター以下クラスの1−2−3フィニッシュを含め、記録ずくめの勝利となった。
HINOの挑戦は続く。
初参戦の1991年大会以来20年目の節目となる今大会で見事市販車部門優勝と10リットル以下クラスの1・2位を獲得。今大会では、ときには3000mを超える高標高や急な登りが延々と続く砂山越え、最高気温50度にも達する灼熱の砂漠など過酷なステージが設定され、上位を狙う日野チームスガワラにとっては厳しい状況であった。しかし、ラリーがスタートすると2台の日野レンジャーは粘り強く健闘。パワー勝負の序盤戦では冷静にペースを保ち、チリに入って難易度の高い砂丘ステージが始まると一挙に順位を浮上させた。そして2号車が市販車部門の首位に立ち、1号車とともに排気量10リットル以下クラスのワン・ツー体制をかためると転倒車が続出するなどトラックには危険度の高い終盤のステージを落ち着いて走破した。
トラック部門のスタート台数68台に対してゴールしたのは41台と同部門としては少なく、部門の完走率は60%。また、2輪、4輪を含めた全体の完走率は50.1%という例年にない過酷な大会であった。
「20回連続完走ということに満足せず、また新たな取り組みに挑戦していきたい」とドライバーの菅原照仁さんが語るように、今後も日野自動車のあくなき挑戦は続いていく。














